鍾乳洞のスケール感

 ありがたいことに、日本には全国各地に鍾乳洞があり、よく整備されているものだから、どの地方にも行くあてはあった。とはいえ最近では、いよいよレンタカーが必要な箇所ばかりが候補として残ってきており、これは今後の大きな課題である。

備中鐘乳穴

 鍾乳洞を写真に収めていて一つ面白いのは、その写真を後から見返した時に元のスケールが分かりにくくなっていることだ。これは人がくぐり抜けられる道だったのか、それとも拳も入らないような窪みなのか。何かしら人工物が写り込んでいれば見え方も変わってくるが、それではどうも興が削がれる気もする。どうしてなのか。

当麻鍾乳洞
龍河洞

 鍾乳洞を見学できるのは、人間が訪ねるのに程よいサイズの穴が露出していた結果に過ぎない。鍾乳石は何十万年もの時間をかけてその姿を現しているけれども、人がそこに時間の壮大さを感じる一方、その時間の尺度は、たまたま人間の目に見える一段階を切り取ったものでしかない。逆に言えば、人間と共存関係にある微生物たちのように、目には見えないスケールで鍾乳石は動き続けている(すでに枯れてしまっている鍾乳洞も中にはあるが)。

あぶくま洞
千仏鍾乳洞

 人間にとっての数千年から数万年というオーダーがどのみち想像で計り知れないのと同じように、眼の前の鍾乳石がどれくらいの大きさかというのも、人間の目で見える範囲の問題に過ぎない。そのようなスケール感が鍾乳洞の良いところである。

入水鍾乳洞
飛騨大鍾乳洞

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