文章が書けなくなってしまったので、リハビリのために適当なことを書く。
日本各地を訪ね回っていると、意図するせざるにかかわらず、至るところで石仏(あるいは磨崖仏)に出くわす。町中の地蔵のように大事に祀られている仏ばかりでなく、ひたすら風雨に曝されている仏も少なくない。そうした石仏は往々にして顔を失っている。
多くの石仏が風化の最中にあることは、その有名無名の差とはあまり関係がない。また、時代的に古ければ古いほど原形を損なっているというものでもない。史的価値を脇に措けば、作られたのが百年前か千年前かということは問題ではなく、ただそれぞれの気候条件のもとで石仏の顔は失われるべくして失われる。
石仏の顔が失われていることは、それがかつてあったことと、それはなくなっていくものであることを、同時に感じさせる。作品や文化財といった扱いをされていれば、元の形が失われることは宜しくないこととされ、保存や修復といった概念がそのあるべき姿を支える。一方で石仏にとって、顔を失うことは、そのあり方に含み込まれているように見える。
しかしながら、そうしたことは製作者の意図として表現されるものでもない。もちろん石仏は信仰の対象として作られたものであるはずだが、風化とともにその意味は乾き剥がれていく。相応の長い時間をかけて「作られたものである」ということが干上がり、「ただそこにある」状態に近づいているということ、石仏の石仏らしい状態があるように思う。
おそらくこのあり方は、かつてのように用をなさなくなった廃墟の寂寥感や儚さといったものともまた異なる。ゆるやかに失われるべくして失われていくものは儚くはない。
これからも長大な時間をかけて、風雨にすり減り、苔に生されながら、石仏は「ただそこにある」を経て「そこには何もない」という状態へと近づいていく。人間の知覚を超えたスケールだとしても、石仏はけっして「時間を経た結果」でも、ましてや「時間の止まった過去」などではなく、今もプロセスの中にある。
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